懐かしの旅シリーズ〜1『稚内・日本最北端の宗谷岬』

旅といっても、主に出張に出かけた際のちょっとした時間の余裕に立ち寄るお楽しみのようなものです。しかし、ここ3年は地方からのお呼びも減って、めっきり出張回数もおのずと減りました。
散々でかけていた頃はblogも書いていなかったので、その時の写真はただハードディスクの中のフォルダー階層深くに眠っているだけ。画像の捜し物をしていて、すっかり懐かしさにはまってしまい、数枚ずつはblogに残せればと急に思いたちました。


ということで、この「懐かしの旅シリーズ」は以前にでかけた出張先での記録が大半です。
さすがに記憶がアヤシイところもあり、若干の前後はあるかもしれません。
写真は当時使っていたFuji FinePix2700(2世代目)のものです。今から考えると、重たい、バッテリーがすぐ無くなる...といった大変なカメラでしたが、それでも良く持ち歩いて撮ったものです。


このblogをご覧の方の中には、もしかしたら登場人物をご存じの方もいるかもしれません。顔は隠していますが服装や髪型、仕草でなんとなくわかると思います。
どうぞこのシリーズで懐かしんでください、それとともに「あの頃はあんなにスマートだった!」と思い出し笑いしてください。

まず第1回はこの時期に相応しいこの場所『稚内・日本最北端の宗谷岬』から。



2000年4月末、「日本最北端セミナー」*1と銘打って、北海道は稚内セミナーが開催されたことがありました。地元建築士会の宗谷支部の方々がいろいろ段取りをしてくださいました。
この時の行程は初日東京から稚内へ飛びセミナー。


セミナーから懇親会までの間の時間だったでしょうか、または懇親会のあとだったでしょうか。受け入れ側のスタッフのA部さんが作っている木工工房があるというので、そこを見にいきました。なんと工房の前には小屋があり『半杓の湯』という看板まであります。驚いたことに自作の五右衛門風呂でした!露天風呂ではありませんが、窓をあけると外には平原が広がっていました。



本格的な五右衛門風呂で、釜が2つ、つまり同時に2人楽しめるのです。
私もお湯をいただいてきましたが、おじさま達がビールを持ち込み、それは楽しそうに、美味しそうに!
そうそう、冬場は犬ソリのレースに出ているというA部さん、今頃はどうしていらっしゃるでしょう。



夜は懇親会で毛蟹をこれが最初で最後だろうと思うほど、贅沢にいただきました。




翌日は『日本最北端の碑』で記念撮影です。撮っていただいたので文句は言えませんが、もうちょっと碑の先端まで入れて欲しかった、そしてもうちょっと高い位置から背景にオホーツクの海が見えるように撮って欲しかった、そんな写真です。
それにしても、4月ももう後半というのに、寒かったこと!



碑の前の道路脇でみつけた『食堂最北端』。
いまでもまだあるのでしょうか。



このあと稚内市内に戻り、やる気のないおばちゃんがいるラーメン屋さん(名前忘れました)で、数人がラーメンを注文。
「塩と味噌、どっち?」と聞くので、それぞれ好きな方をあげて合計数を伝えました。
でも、出てきたのは全部味噌でした。
大盛りの味噌ラーメンを食べ稚内空港から丘珠空港へ。
待ちかまえていた札幌グループに連れられて、またしてもラーメン屋さんへ。
まさか稚内でラーメンを食べているとは思ってもいなかったのでしょう、稚内でラーメンを食べてからまだ2時間もたっていないのです。でも、私の好きな『味の一平』へいくというのですから当然、お断りできませんでした。


なぜ丘珠から札幌入りせずに千歳方面に向かったかといえば、その日はもう1つ、支笏湖の宿を利用した別のセミナーがあったからなのです。温泉宿の会議室は「会議室」と書かれた紙が「宴会場」というプレートの上に張られていました。(笑)
「お座敷セミナー」と呼んでいましたが、テーブル・椅子席でするセミナーとまたちょっと違い、なんとも味がありました。
(最近でもこれに似たシーンには遭遇していますが、なぜか懐かしいのです。)



この日はそのまま支笏湖温泉にとまり、翌日は支笏湖半の丸駒温泉へ立ち寄ってから、新千歳空港へ向かったと記憶しています。





『日本最北端の碑』

食堂最北端

気になって調べたところ、元気に営業中でした!
http://www.welcome.wakkanai.hokkaido.jp/taberu/syokuji/saihokutan/index.html




『味の一平』


北海道千歳市北斗3-1-16
tel: 0123-27-2391
営業時間 11:00〜14:45、17:00〜19:45
定休日  水曜日




丸駒温泉
http://www.marukoma.co.jp/index.htm


*1: これが正しいかは別として、当時、こう命名されていたので、その通りに記載した