街の様相シリーズ〜7『天領 出雲崎(いずもざき)』


書こうと思っていながら、時期(タイミング)を逸して書けなくなってしまう話題が多い。頭に文章が浮かばずに書けないという事ではなく、その話題を載せるのに適したタイミングで無くなってしまったという事だ。


今回の話題もその1つ。
実際には7月11日、この時に訪れた場所で、少々の調べ事をしてから翌週早々にでもアップしようかと思っていた。
ところがそう思っていた矢先の7月16日、ちょうどここを訪問した5日後に「中越沖大地震」が発生。この場所は震源となった地域から近く、海と切り立った崖地とのわずかな間に民家がならぶ。果たして甚大な被害がなかったのだろうか?と思いつつ載せることができずにいた。



天領
この言葉、普段あまり耳にすることはないだろう。元々江戸時代には「御料所」などと呼ばれていた地域のことで、明治になって天皇の御料となってから「天領」という呼び方になったようだ。交通の要所、重要な都市、財源となる鉱山のある場所などがほとんどで、この「出雲崎」や「佐渡金山」など、各地に天領があったらしい。
大規模なところでは、今の山梨の甲斐地方や岐阜の飛騨地方はそっくり天領だったそうだ。


そもそも日本海に面した、一見して静かな小さい村「出雲崎」がなぜ「天領」であったか?
その訳は北前船の寄港地であり、なおかつ、同じく天領だった佐渡金山からの金を船で陸揚げしたという、幕府にとって非常に要所であったからという。


さて、この「天領 出雲崎」にはとても特徴的な街並みがみられる。
高台から見下ろすと一目瞭然、細長い家が重なるようにして並んでいる。その向きはみな同じで、おおきな棟(むね)が海岸とそれに平行して走る通りに対して垂直な方向になっている。これは「妻入り」と呼ばれている。
この「妻入り」形式が起きた理由には諸説いろいろあるようだが、1つは当時の税金が家の間口の大きさによって定められたためで、少しでも税金を少なくする節税の知恵であったということだ。他に、海からの荒れた風から家屋をまもるために、少しでも風抵抗を少なくした結果、海岸線に対して長手方向が直角になったという説、さらには狭い土地に少しでも多くの人が暮らすための知恵だったからだろうという説などもある。


この特徴は街中を歩いてもあまり実感できない。高台で屋根が見下ろせる場所が良いのだが、良寛の故郷でもあった出雲崎には高台に「良寛記念館」があり、そこに隣接する「夕日の丘公園」からの眺めが良い。
さっそくそこから街並みを見下ろしてみた。




あいにくの雨模様ですこし煙っているが、この写真でも、建物の屋根の棟の向きが判る。(好天であれば真正面には佐渡島が見える。)
しかし、なにかちょっと物足りない。


もっと良いロケーションはないか、「夕日の丘公園」から見渡してみると、公園からの尾根続きの小高い丘が目にとまり、遊歩道を辿ってみた。すると茂みの中に木の展望用施設が埋もれていた。ただ整備がされておらず階段は一部が朽ち果てて抜け落ちる寸前。
おそるおそる登って撮ったのが次の写真。








下のMapで右上の「satellite」モードをONにして、拡大し、スクロールして見ても、屋根の形と向きが判る。


新潟県三島郡出雲崎町



出雲崎町
http://www.town.izumozaki.niigata.jp/



(2008.9.11追記)
昨年7月の中越沖地震で、沖合から浮き上がってきた縄文古代の古木を利用する「イズモザキ縄文古木コンペ2008」という企画の案内が学生達にあり、そのことを調べていたら、検索であるblogがでてきた。
http://t2taro.blog.so-net.ne.jp/2008-08-09-00455
プロフィール写真をみてびっくり、以前の会社の時からのおつきあいのあるお客様のN林さん!