『理系思考 分からないから面白い』読了
『理系思考』は最近の流行言葉なのだろうか?
この言葉でamazonなど図書販売のサイトを検索してみると、沢山の数の書籍が出てくる。
その中で、私がこの本を選んだわけは著者の元村有希子氏が自分を「文系だ」と思っているからだった。
つまり理系の人間が「理系とはこうだ」云々というのではなく、文系人間からみて「理系の思考とはどういうものか」が描かれ、どう思われているかが分かるのかと思ったからだ。
しかし、その期待はちょっと外れてしまった。
著者は九州大学教育学部を卒業のあと、毎日新聞社西部本社報道部、そして東京本社科学環境部記者となる。そこで否応無しに科学・環境の事象を通して理系の世界に踏み込み、そこで感じたことを著者の一人として毎日新聞朝刊コラムの「発信箱」に書いた。
この本はそれをまとめたものとされている。
だが、サブタイトルの『分からないから面白い』とう感覚はあまり伝わってこない。
内容は内容として読んで理解できるが、どうもタイトルは本を売らんがためのキャッチコピーのようだ。
書籍の中にはいくつか、興味深い言葉もあった。
夏目漱石の「草枕」の書き出し、
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。」
を引用してこういっている。
「人の世」を現在にあてはめれば、「智」に働きすぎて損をしているのが理系、「情」に流されて損をするのが文系だろう。
しかし、一流の科学者は「智」を貫きながら「情」にも敏感だ。一流の経営者は「情」に厚い一方、「智」を巧みに使い分ける。
あえていうなら文系の心を持ち、理系の頭で考えるというのが、複雑な世の中をしたたかに生きていくにはちょうどいい。
また、
国に守られ、国際競争にさらされない縦割り型の組織ほど、理系トップは生まれにくいという。
ははぁ、なるほど確かに、と思うところもあるのだが、読み進めていくと、「理系」「文系」の話の筋から逸れているように思えるが、「女性は理系が苦手だ、故に文系だ」ということを前提とした展開がいくつか見える。
「ハーバード大学サマーズ学長が『女性はうまれつき科学にむいていない』こういう趣旨の挨拶をし、解任され、後任の学長は女性がなった」ということや「人生の上り坂を『男時』といい、下り坂を『女時』という」というようなことを挙げていたのが妙に印象に残った。
単に「理系」「文系」ということではなく、どうも根底には「男」「女」のことがあるように思われてならない。
私がこの本にもとめていたものは何だったのだろう?
もっと端的に「理系」であること「文系」であること、「理系的思想」「文系的思想」がどういうものかを知りたかっただけなのだ。
そもそもなぜ「文系」「理系」のことにこだわったかといえば「自分はどちらなのだろう?」という疑問があったからだといえる。
「僕は国語が苦手、文書かくのも嫌いだから理系だな」
「私は数学が苦手なので文系です」
などという会話は日常で良く耳にするが、では私はいったいどちらなのだろう?
いや、こういう考え方からして、いったいどこで決められたものなのだろう?
振り返って思うに、「文系」「理系」かという「文理わけ」は、高校の教育の中で行われてきたと思う。
私の頃は高校3年になって初めて、進学クラスが「理系コース」と「文系コース」によって別れ、勉強する教科も受験に必要な教科を重点とした構成になった。(物理、化学、数学の授業時間が増えた)。最近はさらにもっと早い時期からコース分けがなされ、受験教科が少ない私立大学進学のコースでは文系ではもう「数学」という教科は出てこなくなるし「物理」という教科はハナからないらしい。
「化学や物理は大好きだけど、数学はそこそこ好きで、英語や世界史は大の苦手、でも国語や古文が得意」だった私は非常に苦労した。
すすみたい学科の入学試験の教科から「理系コース」に入ったものの、好きな教科、得意な教科だけに専念して勉強するというわけにいかなかったので、いつも中途半端な気分でいた。
人を「文系」「理系」に分けること自体、妙にナンセンスなことに思えてならないし、先に引用して書いた中にあるように、
「一流の科学者は「智」を貫きながら「情」にも敏感だ。一流の経営者は「情」に厚い一方、「智」を巧みに使い分ける。」ような人となるには、ますます進んでいく受験のための「文理わけ」が、弊害であるとしかいいようがない。
- 作者: 元村有希子
- 出版社/メーカー: 毎日新聞社
- 発売日: 2007/10/27
- メディア: 単行本
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著者他が書くblogがあった。
「理系白書」
http://blogs.yahoo.co.jp/rikei55