『神の子どもたちはみな踊る』読了


昨年にかけて、村上春樹の小説、短編小説、エッセーなどを過去の作品から順に読むということをしていたが、なぜかこの短編集だけ読む機会がないままとなっていた。
1999年の「新潮」に8月から12月まで毎月掲載されたものと、最後に書き下ろしを1編加えた構成だ。
一編が文庫本だと30ページ内外のボリュームなので、とても読みやすい。


村上春樹の小説をいくつか読んだことがあり、さらにそれに拒絶反応を示さずにこれた人達はおそらく意識しないまでも「村上春樹を読むフィルター」を創っているに違いない。
そのフィルターは決して、ものごとを歪めるものではないが、
「結末の見えないことを不満に思わない」
「できすぎな話をつつかない」
「リアルさの中に忽然と現れる非現実を納得できないといわない」
こんな暗黙の了解が薄く塗られた透明フィルターだと思えばいいかもしれない。


今回も自然とそのフィルターで読み進めていたが、長編の小説と違ってフィルターはあってもなくても構わない存在だった。
むしろ、2,3編まで読み進んだときにわき起こったキーワードの疑問。
それが「地震」だと気が付いたとき、自分のなかに封印していたはずの厄介なものが、再び解き放たれてしまいそうな不安を感じた。


扉の目次には『神の子どもたちはみな踊る』と、そして6編のタイトルが記されている。
しかし、本の終わりには『神の子どもたちはみな踊る』というタイトルのかわりに、
『連作「地震のあとで」その一〜その六』と書かれていた。
それを先にみていれば、こんなに物々しくここで「地震」というキーワードに触れずに済んだのかもしれない。
この本で触れられている「地震」が、「阪神・淡路大震災」のことに他ならなく、それは私にとって第三者に説明のしようがない恐怖と人生の方向をおそらく60度ほど狂わされた原因でもあったので、私はたまらなくなって途中で本を閉じて数週間封印をしてしまった。


村上春樹は何を目的に1995年1月17日の地震をふまえ、この短編を連載したのだろう。
舞台は神戸・大阪ではなく、全く違う場所だが、それが逆に私も含め、あの地震によって「遠隔的にも多大な影響を受けた」人達の心の内に、二度目の衝撃を与えたに違いない。
あるいは、そういう事実の存在を明らかにしたかったのだろうか。
サリン事件を題材にした「アンダーウラウンド」がストレートだとしたら、この本は間合いを巧妙にとらえるジャブのようだ。



神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)