「それは再構築された別のもの」〜映画『ノルウェイの森』を見に行く


(リンク先とともに、ネタばれ注意)


封切りしてあまりたたない映画を見に行くということは滅多にないのだが、賛否両論、いろんな感想が聞こえてくるので、流れに乗り遅れないうちにと『ノルウェイの森』を見にいった。


最近では3年半ほど前に、原作を一度読んでいるので、物語の記憶はそう古くはない。



そして今、読んでいる『ノルウェイの森』にあっては、もう、ただただ、やたら切ない。
上巻を読み終わって、下巻に手をだしたその晩、突然、夜中に言いしれぬ不安感を覚え、「泣く」とう感情の意識がないのに、泪がぽつぽつと落ちた。

http://d.hatena.ne.jp/tangkai-hati/20070625/1182846859:Title=『ノルウェイの森(上)』 読了

午前2時、枕元の灯火のしたで読了する。

どうしても、彼ら・彼女らを、一日でも長くあのままでいさせたくなかったから。

http://d.hatena.ne.jp/tangkai-hati/20070627/1182955137:Title=『ノルウェイの森(下)』 読了



そして、もう1つ、『ノルウェイの森』はこれを除いて語ることはできないというものがある。
それは『螢・納屋を焼く・その他の短編』という短編集で、その中の最初の1編『蛍』はまさに『ノルウェイの森』の始まりだからだ。


冒頭の「蛍」を読み出して、あれっ?と思った。
前に読んだ?!
そう、偶然にも、この本の1つ前に読んでいた『ノルウェイの森』の最初の章とほとんど同じだった。

http://d.hatena.ne.jp/tangkai-hati/20070714/1184505497:Title=『蛍・納屋を焼く・その他の短編』読了

しかし、この非常に重要ではないかと思われる部分が今回の映画には全く出てこない。
賛否両論といったが、では私はどちらかと問われると、答えに困ってしまう。
映画『ノルウェイの森』の出来の善し悪しは語りにくい。


この映画は、ちょうど原作本を読みながら、マーカーで線を引き、あるいは付箋紙を貼り、その部分を抜き出して、あるエッセンスに沿う脚本を作ったという物語なのだろう。
それがこのblogのエントリーのタイトルに「それは再構築された別のもの」とつけた所以だ。


原作は意識せず、離れたところにおいて映画を見ようとしても、やはりどこかで比べている。
登場人物は原作を読んで頭の中に描いていた3人とはかなり印象が異なった。
それはともかくも、原作を先に読んでいたため故の妨げがあるのかもしれないが、映画を見ても悲しみや言葉にならないような感情がまるでわき起こらなかったのは確かだ。
原作ではあれだけ切ない気持ちとなり、そして読み進めるのに時間がかかることすらもどかしく、本の中の3人をなんとかしてあげたいとう気持ちになったのに、映画では自分の心はそのままに、淡々と見続けてしまった。


さらに、一見すると「女性の視点でみた」映画のようだが、実は「女性の視点でみたらこうなのだろう」という監督の憶測の映画だということ。
この映画でワタナベを女性はどう見るだろうか。
緑は「ワタナベ君て優しいのね」と何度か言っているが、本当に優しい男だろうか?
「ややこしいことが解決するには時間がかかる、もうちょっと待って欲しいんだ。」と緑に言っているが、実際のところ解決とは直子の死でしか得られない。
それを心が籠もらないような、例のぼそぼそした口調で平然と言っている。
「深く愛すること」と映画のキャッチにはあるが、どうしてもその深い愛をスクリーンからは感じることができなかった。


なぜだろう、ずっとそれを考えていたときに、このエントリーをみつけた。
すべてというわけではないが、気になってしまったことがここにはいくつも載っていた。


映画鑑賞メモ「ノルウェイの森

http://d.hatena.ne.jp/Francesco3/20101230/1293699834


何度も出てくるキスシーンは目を背けたくなる、というより、ねちゃねちゃ、べちゃべちゃした音が耳障りで耳を覆いたくなった。
二人が交わるシーンではシーンが切り替わったと思ったとたんに、いきなり突拍子もない「あーーーっ!」という喘ぎ声。


監督は何の意図でこれほどまで、エレガンスさのない演出をしたのだろう?


ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫)

螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫)