『絶対○感』

tangkai-hati2007-04-09


(携帯電話からの書き込みテストを兼ねて)

某所で『絶対音感』についての話があった。
絶対音感』は先天性なものではなく、うまれた後に施されたある教育などによって後天性に身につくものという学説が主流になってきたらしい。

今まで、大多数の人が持ち合わせていない、そういった特殊な能力は、先天性なものだと思ってきたので意外だった。
そういう事を意識せず、周囲も意識して教育もしていないのに、絶対音感を持つ人たちが存在するからだ。
その人たちは、たとえば音楽家一家が子供にする音楽の英才教育のような、あるいはそれを越えて、絶対音感を身につける事ができるどんな影響や教育を受けたのだろう



ところで私は自分でひどい音痴だと思っている。
絶対音感があるのと、全く両極端の地にいる。
だが、そのかわり周囲の人よりも、ほんの若干だが、色についての感覚が違っているような気がする。
色が認識できる、できないという事ではなく、たとえば同じ色であるべき複数のものに、少しでも色の相違があると気になって仕方ない。
酷いときは、そういったものを見続けると、ものすごいストレスに見舞われる。

音の世界に「絶対音感」という言葉があるのなら、色のこのような世界は何というのだろう?
「絶対色感」とでもいうのだろうか?



幼い頃、絵を描くことが大好きだった。
小学校へ入学し、図画工作の時間、「山の色を塗りなさい」という担任の指示で、周囲の友達はみなクレヨンの「緑色」をとり、塗りだした。
でも私はそれは違うと思った。
まずベースに「茶色」「焦げ茶色」を塗り、その上から「緑色」「黄緑」をかさね、さらに所々に「朱」も重ねた。
馴染みの悪い部分は指先でこすって、微妙なグラデーションを作った。
それでこそそれが「山の色」だと思った。

そんな事をしている私は、担任には人と同じ事ができない異端児(変な子)のように見えていたらしい。

教室の後ろに張られる絵は、いつも一人だけ、違う課題をこなしたかのように見えたし、大好きな図画工作なのに、通知票の点数はさほど良く無かった。
そんな中、小学校の5年で転校した先の神戸の学校で、一風変わった風体の図画工作教師が、そんな私の描く絵や版画をとてもかってくれた。
クラスの中から選んで市のコンクールに出してくれたり、廊下に張り出される作品にはいつも「優秀」の金色の紙を貼ってくれた。もし1年の時からこの教師に習っていたら、私はもっと変わっていたかもしれないと、今にして思う。



そしてもう一つある。
それは空間的なこと。
それも何か人と接していると、自分のそれは違うような気がする。
三次元的な空間の中の物の有り様(ありよう)に対する感じ方、目には見えない空気の見え方。
「絶対空感」といえばいいのか?


こうして考えていくと、人にはきっと、他者とはちがう研がれたような感覚があるにちがいない。
たまたま「絶対音感」がなせる技は、身近な世界の中で突出して凄いと感じるが、
そうでない「絶対○感」を人はきっとそれぞれ秘めていると思う。