街の様相シリーズ〜6『銀座』の追記

以前かいたこの話題の最後に、ヴェロックスのデビアス(De Beers)のテナントビル写真と感想をこう載せた。



見ていると、精神的に不安定な気分になってくる。

http://d.hatena.ne.jp/tangkai-hati/20070902/1188748473


今でもこの写真をみると、そう感じる。


だが、先日気になって再び同じ場所を歩き、気が付いたことがある。
このマロニエ通りは決して広い通りではなく、ビルの反対側の歩道をごく普通に歩いても、このビルの全貌が一度に目には入ってこない。たとえば銀座通り側からプランタン方面めざしてごく普通に前をむいて歩くと、目の前の視界にはこのビルのせいぜい3階くらいまでしか目に入ってこない。これは別段何の違和感がない。


それではと、先日写真を撮った位置で立ち止まって、このビルをしたから上に見上げてみる。仰ぎ見るという感じだろうか。
写真は人間の目をはるかに凌ぐ広角の状態で、この写真は通常のデジカメで撮った写真を縦方向に継いで合計で1枚と1/3ほど使った勘定になる。
人間の目は立ち止まって見あげる時にも、先にみた道路付近での像を残像とし、次第に見上げていく像に合成をしているが、おそらくその残像には自動的に何らかの補正が働いている。
写真でみるとたまらない、見上げた際の不安感をそれが見事に消している。


一方、同じ話題の最後にあげた追記、

■(2007.9.9追記)

あー、RYOさんのところでパースつくってたんだ....

http://d.hatena.ne.jp/tangkai-hati/20070902/1188748473


このリンク先
http://www.zy-partners.com/blog/archives/2007/09/post_38.html
にあるデビアス銀座ビルのパース(完成予想図)をみても、上の写真のような不安定さや不安になる気持ちがほとんどおこらない。
写真では無理に全景を納めることで、その不安感があったのに、なぜか?
これはこのパースを描いた際のSP(スタンディングポイント)のせいだ。
本来は他のビルに阻まれて見ることができない位置からの視点として描いているが、私の写真はあくまでも向いの歩道上、ごく普通に存在できる位置からのものだ。


私にとって、人間の目を通した視覚感覚による像とレンズを通した写真の映像、そして見せる目的のためのパース画像、この相違はいつもどこかでぶつかる事象だ。