『辺境・近境』読了


最近本を読むペースがひどく落ちている。理由は分かっている。出張を控えて長時間の移動がない事、借りてきている本がなぜか文庫本でなくハードカバーで大きなサイズなので持ち歩けないこと...こう書くと自分の問題がないように見えるが、読む当人の心の余裕がないこともまた確かだ。


こういう時には世界に没入して深く妄想までしてしまう小説より、のんびりと力を使わずに読み進められる紀行物が良いのだが、なぜかこのところ読もうとしてる村上春樹の紀行物は思うようにいかない。とっつきはどうも椎名誠の本を呼んでいるような錯覚におちいる、が、それはそれでありそうでいて、そうでない。
たとえば椎名誠と怪しい探検隊が無人島へ渡れば、そこでは即、各自が自慢の怪しい行動が繰り広げられ、焚き火に酒を飲み交わし、独自の世界ができてしまうのに、村上春樹ときたら息のあったカメラマンの松村映三とともに、瀬戸内海の無人島「カラス島」に渡っても、あっけなく虫の多さに退散してしまうのだ。


この本に収められた辺境・近境は、


多くの作家達がシーズンステイを楽しむ「イースト・ハンプトン」
瀬戸内の無人島「カラス島」
「メキシコ大旅行」
「讃岐・超ディープうどん紀行」
大連からハイラルノモンハンウランバートルと続く大陸の旅
アメリカ大陸の横断
そして故郷の街を訪ねる「神戸まで歩く」


という構成だが、どこが辺境でどこが近境なのかはあえて判断することもないのかもしれない。
ノモンハンの旅は「ねじまき鳥クロニクル」の第二部で言及された満州、そしてノモンハンの事で実際にそこへいかないかという話がきたという。事前に膨大な取材をし、小説をかき、そしてさらにその地を訪れることができるのは、小説家にとってクロージングをするという意味で幸福なことだと思う。勿論、事前の取材に現地を訪れることだって幸せではあると思うが。


「讃岐・超ディープうどん紀行」の淡々と書かれたうどん店の状況のあとに最後の一節、
「しかし『中村うどん』は凄かったよな。」
をよんで、思わず笑ってしまった。
この笑いはオカシイのではない、「そうそう、そう思ったのよね」という、ようやく私の心の中にわいてきた同意または安堵感だろう。
実際、私はこの話の中に出てくる店を古くから何度も訪問しているが、記述されていることは全くその通りだった訳で、情景を思い浮かべて懐かしむには至らなかった。


小説では切なすぎるほどの文章をかき、おかげで心があっちの世界にいってしまって呼び戻すのが大変になるくらいなのに、なぜか紀行文にはノスタルジーを感じない。それは常に小説の根底や題材になるものを意識しているからなのだろうか。


ということで、また村上春樹の小説が読みたくなった。



辺境・近境 (新潮文庫)

辺境・近境 (新潮文庫)