『米百俵の明日』

誰もが耳に入ってくるニュースで「不況」と知っている。
日々配信される倒産情報はぐっと件数が増えた。
私の関わる仕事も、顧客の大多数は、今最も厳しい状況とされている建築・建設業界で、その業界からの発注や、さらにその下の業界からの発注を生業にしているのだから、最も底辺で辛酸をなめている。


厳しければ経費節減が行われる。だから新規のソフトウェア購入はおろか、バージョンアップも軒並み見送くられる。売り上げはない。
出張を減らしたり交際費を減らすなどといった程度では当然収まらず、リストラで一番大きな経費である人件費削減をはかる。新入社員は採用せず、残った社員にも教育をしない。だからトレーニングや講習の需用がない、団体内での勉強会のお声もかからない。


しかしこれは風邪を引いて、息を潜め、咳のでるのをじっと我慢して止めているようなものではないか。
咳はでていなくても熱が出て体はどんどん弱っていく。
こんな時にこそ、体力のつくものを食べて補給し、多少なりとも上向きとなった瞬間に、どこよりも早くスタートダッシュを切ってどん底から抜け出さないとならないのだろう。


顧客がそれを行えば、それは自ずと私の仕事にも反映されて、底なし沼から少しでもひのめを見ることができる世界に引き上げてくれる。
だからこの時期に気の利いた営業トークはいえないが、

「こんな時だからこそ、今、勉強をしましょう、人を育てましょう。」


こうあちこちで言っている。



この話をすると小林虎三郎「米百俵」という言葉を思い出す人も多いだろう。



戊辰戦争(1868年)で焦土と化した長岡藩に、支藩三根山藩(現在の新潟県西蒲原郡巻町)から見舞いとして百俵の米が送られてきた。窮乏を極めていた藩士は米が分配されるのを一日千秋の思いで待った。
しかし、藩の大参事・小林虎三郎は、この米百俵は文武両道に必要な書籍、器具の購入にあてるとして、米を売却した代金を国漢学校建設の資金に注ぎ込んだ。
国漢学校には洋学局、医学局も設置され、藩士の子弟だけでなく町民や農民の子供の入学も許された。
ここに長岡の近代教育の土台が築かれ、後年、ここから新生日本を背負う多くの人物が輩出された。
この「米百俵」の故事は、文豪・山本有三の同名の戯曲によって広く知られるようになり、「国が興るのもまちが栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ学校を建て、人物を養成するのだ」という小林虎三郎の思想は、多くの人に深い感動を与えた。

「米百俵」の故事




2002年5月7日、かの小泉元首相は総理就任時の所信表明演説を行った。
当時何がいいたくて、所信表明演説で「米百俵」のたとえを持ち出したのだっただろうか。
なぜか鮮明な記憶はないが、そうだ「米百俵」という言葉をだし、
「国民の皆さん、今の痛みに耐えて明日を良くしよう!」といっていた。
しかしこの言葉通りに国民が我慢して過ごした6年余の果てが、今の世の中の状況だとしたら、「明日は来なかった」ことになる。


ここまで書いて疑問に思う。
越後戊辰戦争の後、かろうじて藩取り潰しを免れたものの、大幅な石高削減によって財政逼迫で大変だった長岡藩に、三根山藩から贈られてきた米百俵はそもそも誰へのものであったか?
それは民衆ではなく藩士達へのもの(禄)だった。
これを「米百俵」の例えで国民に我慢しよう、といった元首相は本来の意味を取り違えているのではないか。
まして、当時は禄である「米百俵」を費用に投じて、学校を作り、その学校には藩士やその師弟だけではなく、町民農民まで入校して学ぶ事が許されたというのだから、これを今の世の中に置き換えれば、あまたいる議員や公務員は顔色が悪くなるかもしれない。


米百俵」を主張しなければならないのは実は今、この時代ではないかと思う。
それも真の意味での「米百俵」であり、それは決して米が2〜30kg買える金額をばらまいて、これで経済が明るくなりますよと騙され凌ぐ*1ような事ではないはずだ。

*1:12,000円の定額給付金といわれている