「Aである」という事実


ここ、1,2日の間、書いておきたいと思う事なのに、書けずにいることがある。
それは数日前の日記に関しての事だが、まるで「細い針金の上を歩く」ような事なので、言葉を選ばないとならない。
一言間違えれば、自分の思いとは全く違う解釈をされ、誤解されない、そんなセンシティブな事だ。


もし自分に文才があれば、もっと的確に水も漏れぬ表現ができれば、容易く書いているのだろうなぁ..と思う。
それ故、あえて婉曲な表現でかいておく。



物事は「Aである」といったからといって、決してそれだけでは「Bではない」ということにならない。
「Aである」ことだけは確かで、「Aではない、ということは否定でき」ても、「Bである」とも「Bでない」とも言うことはできない。
ところが、「Aである」という事の主張が多数重なると、かならず「Bではないのに...」という構文で話がわき起こってくる。
あくまでも「Aである」という事実を忘れて。
時には「Cなのだから」という突拍子もない、本論からははずれた話題にすり替えられようとする。
たしかに「Cである」という別の事実は起きているが、話のトポロジーが異なっている。
この事実が問題視されず、他の問題に置き換えられてうやむやになっていく。


「「Aである」ことの主張が偏向だ」という主張もまた、かさなれば偏向にほかならない。
これは波間を漂う船のようだ。
「Aである」という事の重なりが波の最高潮に達する。
すると、そのことに非難がおき、それが同情にもなり、そして全く対極となるのに、それは波の最低潮に達する。
再び、今度はそのことに非難がおき、もとの最高潮へと到達する。
こうして、両極端を何度も揺れ動くが、そうなるとそもそも波の発端となった「Aである」という紛れもない事実はもはや認識外となり、問題視されなくなってしまう。


私は仮に「Cなのだから」という意見に間違いがないと思っても、それと同時にまた異なるトポロジー上の「Aである」という事実を決して否定することはできないと思っている。