『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』読了 (その1)


実はこの本は8日ほど前に読み出したのだが、読み出すと他の仕事ができなくなると思い、数日中断をしていた。


河合隼雄の名は知っていても、今までその著書を読んだことが無かった。それは私の中で本当に大きな損失だったと、読後にまず後悔した。今年のつい7月19日に亡くなられてしまったということが、なお一層、後悔の念を強くする。
決して難しい言葉を使わない、難しい言い回しをしない、なのに読んでいると『むずむずがほぐれていく感じ』(書籍帯より)が感じられる。
こうしていつものように、読了の記録かわりに書き出したが、思うこと、感じることが沢山ありすぎ、とても1つのエントリーでは書けそうにない。


この本は、前書きを村上春樹、後書きを河合隼雄が担当、1995年11月に行われた二晩にわたる対談のほとんど手を加えていない記録に、あとからフットノートという形でそれぞれの補足が加えられている。
まずこの方式がとても小気味よい。なぜなら通常の対談記録のテープをおこし、そこに編集がこぎれいに文章をまとめたものと違い、対談時のそのムードでしか語れなかった本音に近い部分が判るし、村上春樹河合隼雄この二人が対談することで相互に影響しあう様子が感じ取れるからだ。その上で、それらには手を加えず、補足の文章で明快にしている。



『第一夜---「物語」で人間はなにを癒すのか』


村上春樹との対談、『ウォーク・ドント・ラン』の中で、村上春樹は文章を書くことについて、それは「自己改革」だといっていた。

小説を書くことについて、
村上龍は「自己解放」といい、村上春樹は「自己改革」だという。
しかし、「どっちにしても自己表現ではない」というのが二人の見解だ。

http://d.hatena.ne.jp/tangkai-hati/20070817/1187342892

一方、本書の中では、小説を書き始めた理由を「ある種の自己治療のステップだった」といっている。

 僕は小説を書くのはビデオのロールプレイング・ゲームに似ていると思うのです。つまり次に何が画面に出てくるかわからなくて、いつも意識をニュートラルに集中し、ボタンの上で指を柔らかくしておいて、画面に出てきた予期せぬものに対して、さっと素早く対処しなくてはならない。そして多くの場合、その対応のスタイルの中に、僕にとっての小説的な意味が含まれているわけです。 
 でも小説を書くことがゲームセンターのロールプレイング・ゲームと決定的に違うところは、自分が直面しているそのプログラムを作っているのが自分自身だということですね。自分でプログラムを作りながら、なおかつ同時に自分がそのプレイヤーでもある。そして自分がゲームをプレイしているときには、自分がゲームをプログラムした記憶は完全に失われている。右手のやっていることを左手が知らず、左手がやっていることを右手は知らない。それが僕にとっての究極のゲームであり、自己治療だという気がします。実際にやってみると、すごく難しいことですが。
(P80-81 フットノートより)


このノートを読むと、いままで村上春樹の長編小説をなにかしら読んだ事があるのであれば、「あの世界」や「あの場所」がどんな風に生まれたか、多少なりとも理解が示せるようになるのではないか。



村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)


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