『新・雨月 戊辰戦役朧夜話』上・下巻読了


例年4月から7月一杯は、一週間のうち2日を長岡で過ごす。
つまり、週に1往復上越新幹線で東京から長岡へと、群馬・新潟県境を越えて行き来している。
この県境を西へとみれば、三国街道とよばれる国道17号線は三国峠を通っている。正確にいえば三国峠の下をトンネルで越えている。
幕末史のファンならば「三国峠」の名を何度か耳にしている人が多いかと思う。長岡藩家老河井継之助が長岡と江戸を行き来したその峠。


昨年はこの往復の際、三国峠に、また小千谷から長岡にかけての周辺に思いを馳せながら、司馬遼太郎の『峠』(上・中・下巻)を読了した。


■中越の雪山を見ながら『峠』を読む
http://d.hatena.ne.jp/tangkai-hati/20090428/1241520869


■『峠』(中、下)読了
http://d.hatena.ne.jp/tangkai-hati/20090616/1245602813



これは目前に広がるまだ雪を頂く山々や田畑が小説の言葉とかさなり、例えようのないダイナミックな読書だったが、今年もまた同じような体験をしたいと思っていたところに、2月半ば、北越戊辰の戦いを描いたという新たな書籍が発売されたのを知り、さっそく6月末から鞄の中に入れて持ち歩いた。



上・下巻ある各1冊は500ページもあるハードカバーで、出張の際の友とはいえない重さだったが、読みたさ一心で3往復を共にした。




戊辰の戦役を描いた小説や文献は他にも何冊もある。
ほとんどが幕府側かそれを追い落とそうとする官軍側かのどちらかに身を置き、あるいはそこの中の誰か1人を主人公として話が進められている。
『峠』もしかり、長岡藩家老、河井継之助を中心とした物語であった。


しかし、この『新・雨月 戊辰戦役朧夜話』は全く異なっている。
長岡藩で元博徒でありながら河井継之助の恩義をうけた「布袋の寅蔵」(架空)、会津藩家老「梶原平馬」、そして長州藩の間諜「物部春介」(架空)。
1人の主人公でもなければ、敵味方という1対1の争いでもない。それぞれの属するところの、それぞれの思惑をこの3人の人物にのせて巧みに物語りをすすめていく。
同時に進んでいくこの3人の動きは、読みすすめるうちにやがて、どんどん接近し、そしてある一所に集まる。それがこの物語の終焉の地となる、会津だった。
物語の中には三人の運命の行方を導くかのような「雨が降りしきる中に見える、朧のような月」が時折現れて、それを見た者を惑わす。
それが『雨月』だ。



全く幕末の日本の動きを知らずに、単に物語として読むのは少々つらいだろうが、少なくても当時の官軍、幕府軍に登場する人物を知っていれば、この物語はさらに深く楽しめる。
例え直接その場に現れる人物でなくても、3人の動きには必ず関わりをもってくる。


たとえばこんな一節があった。


官軍の様子を探るため、陣地を張る小千谷で兵士相手の居酒屋の主人となっていた布袋の寅蔵が、本営に酒を届けにいった時のことだ。
長岡藩が開戦せざるをえなくなったきっかけの、小千谷談判で河井継之助を門前払い同様に扱った土佐の軍監、岩村精一郎がいた。
前日、朝日山攻略に失敗し同士「時山直八」を失った岩村精一郎が、いつものように割烹から取り寄せた天ぷらをつまみ上げていたところに、山縣狂介(後の山縣有朋)がやってくる。
そして岩村精一郎の目前の膳を蹴り飛ばす。


「こんなときに割烹から晩飯を届けさせた。それがどういうことか分かっているのか?」
「兵は握り飯だけだ。軍監なら割烹から取り寄せた料理を食ってもいいと考えているのか?」
「今日がどんな日か言ってみろ。昨日、朝日山攻略に失敗し、時山直八を失った。そんな翌日にうまいものを食いたがる神経がわからん。土佐ではどんな教育を受けた?  長岡藩家老の河井継之助はたえず常在戦場という武士の心得を藩士たちに叩きこんでいると聞く。常在戦場。それこそ武士(もののふ)の要諦だ。土佐ではそういうことを教えもしないのか?...」
(『新・雨月 戊辰戦役朧夜話』上巻 340〜341ページ)

敵軍の人物で、しかも当の岩村精一郎がはねのけた河井継之助を例えに出してまで罵倒されたのだ。
河井継之助という人物を敵ながらいかに山縣狂介ら官軍の有識幹部が認めていたかうかがえる。


ここで「常在戦場」という長岡藩訓と家老河井継之助の心得が分かる。
河井継之助を心酔していた山本帯刀は継之助が只見で没したあともなお、会津に向かい、会津藩とともに戦って捕らえられ切腹した。維新には山本家は廃絶、子孫も女子のみとなっていたが、同じ長岡の士族であった高野家から養子となってこの山本家を再興した山本五十六もこの「常在戦場」という言葉を座右の銘としていた。
山本五十六がこの言葉を使ったのは、単に長岡出身であるということだけではなく、山本帯刀からつながっていたのだった。
また、維新後、焦土と化した長岡の再興に尽くした小林虎三郎の「米百俵」も「常在戦場」の根底からきている。
「常在戦場」というこの言葉は長岡藩主牧野氏から脈々と長岡に関わる人に受け継がれてきているのだった。


つい最近もこちらでこの言葉を見たばかりだ。
http://d.hatena.ne.jp/hihi01/20100715/1279166597


このわずかな一節だけでも、幕末から維新にかけての長岡の一端がみえてくる。
他の箇所でも同様に、官軍、会津藩、そして東北列藩のさまざまな目論見が、史実が、みえてくる。
じっくりと読みすすめれば、すすめるほど、それだけさらに深い小説だ。


戊辰戦役にかかわって命を落としていったもの、生きながらえて維新後に活躍したもの、さまざまな人々のその後が下巻の最後に延々と記されている。
彼らが向かっていたものは何だったのだろう。
目標としていたものは何だったのだろう。
雨の中の見えるはずもない月のような、そんな朧なものであったのだろうか。


新・雨月上 戊辰戦役朧夜話

新・雨月上 戊辰戦役朧夜話

新・雨月下 戊辰戦役朧夜話

新・雨月下 戊辰戦役朧夜話